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2014年2月11日 (火)

楽曲代作とかけそば、いっぱいの観点

 楽曲代作問題の報道がかまびすしい。普通ならこんな問題はソチ五輪の報道に掻き消されてしまい沈静化するタイミングなのだが、話がソチ五輪にも絡んでいるというから、そうもならない。

 意見が割れるこういう事件には、いくつもの観点が混在しているものである。どう考えればいいのか、わたしも迷うところだ。

 この楽曲代作問題を、「音楽界の『一杯のかけそば』」問題」と呼ぶ向きもあるようだが、こういう大雑把な捉え方は、本質を見えにくくするのではないか。

 『一杯のかけそば』自体も、ストーリーが実話であるのかどうか、ということと、リアリティが感じられるのかどうか、ということとが混同して論じられたと思うし、それが作者の行状と重ね合わせられて、いよいよ胡散臭さが増していったわけである。
 しかし、作者の人格と作品の価値とは別次元のことである。『一杯のかけそば』自体には代作とか盗作とかそういう問題はなかった。これの創作とセールスに関して言えば、作者に何の非もなかったのだ。
 もちろん、実際にはあり得そうにもないこういうストーリーを、作者が実話であると言い張ったことはどうかとは思うが、それだって文芸的営為だと言えなくはない。
 わたしは当時、あんまりこの話に心動かされなかった。実話かどうか以前に、大してよくできた話とも思わなかったからである。
 そもそも一つの丼に入った食べ物を(子供用の碗も出て来ずに)三人で分けたり、子供が自分の箸で取った蕎麦をお母さんの口許に持っていったりすることが、どうにも品がないと思ったし、三人で着席しているのに人数分の注文をしないことも含めて、食べ物屋でのふるまいとして、わたしからすれば不自然かつ嫌悪に値するものだった。
 そして、話の胆の部分を全て親子の科白によって説明する、という構成も、稚拙だと感じた。また、お笑いタレントが指摘した「蕎麦屋でかけそば一杯頼む金があれば、スーパーで蕎麦玉買って家でかけそば三杯作れる」という矛盾点についても、作者は「あの店は死んだお父さんと来た思い出の店だからどうしてもあの店の蕎麦でないといけないのだ」というような後出し説明をしたが、そんな大事な情報が本文には盛り込まれていない。
 反面、これに涙した人が多くいたのもまた事実で、うまく日本人のツボを押さえているとは思う。だから、いろんな問題点をクリアするかたちで、映画化もされた。あの映画の構成であれば、わたしもまあ納得するし、いい映画だと思う。
 テキストとしての構想こそが価値を問われるのであって、実話かどうかなんてどうでもいいのである。まして作者の人格なんて、もっとどうでもいい。芥川や太宰がそんなに品行方正であったか。もし作者が法に触れることをしていたのなら、それには法で報いればよろしい。それは作品外のこと、作品とは別だ。
 

 ことが文芸でなく音楽となると、ちょっとまた異なってくると思う。

 今回の楽曲代作は、明らかにクレジットとは別の人が作曲しているわけで、そのことからして『一杯のかけそば』とは全く問題のありかが異なるのだが、作者(とされてきた人)の経歴やら創作の背景となった思想に嘘がある、という点だけで共通するので、並び論じられるのだろう。
 音楽と言語芸術とでは根本的に観点が異なってくる。言語芸術であれば、作品自体の中で明確に自己言及することが可能だからである。対する音楽は、作品の外側に言葉による説明がつかないと、社会とのリンクは不可能である。
 反面、説明抜きで楽曲自体だけを訊いて純粋に感動することもあり得る。つまり、外側の言葉で説明するのがあざといとされる文芸と違い、音楽、特に歌詞のない音楽は、外側の言葉と楽曲自体とが対等に感動を支えている気がするのである。
 そういう意味で、楽曲の外側で伝説の部分を担った見かけ上の作曲者と、楽曲自身を完成させた真の作曲者とも、持ちつ持たれつの関係にあったわけである。実際クラシック音楽に携わる人からは、交響楽の作曲なんてあんなもんでしょう、などという声もあるようである。だからこそ、両作曲者は互いに互いを批判もしていないし、賠償なども主張していない。
 これらの楽曲の「伝説」に人々がとびついたのはなぜか。見かけ上の作曲者の、全聾というプロフィール(がベートーベンに通じること)、そういう人が震災に思いを馳せて曲作りをしていること、という二点であろう。しかしこの二点に別段何のつながりもないわけで、話題としての稀少性をたまたま二つ具えていたことから、まつり上げられたのだろう。

 今、冷静になすべきことは、楽曲自体に価値があるのかどうか、という検証である。既に世に楽曲が出ていて、それ自体に少なくとも法的な問題は存在しない以上、これを人の目から隠すことは、社会的損失でもあるし、問題をうやむやにすることでもある、と考える。
 だから、CDを店頭から撤去したり、演奏会を中止にしたりするべきではない。むしろ、多くの人が聴くべきなのである。ここまで事情が明らかになった以上、その事情と、それが隠蔽され今回露顕に至った経緯さえも、伝説の一部に必然的に加わる。それでなお、これらの楽曲が聴くに足る音楽的価値を持つのかどうか。持つのなら皆がCDを買い演奏会に足を運び続けるし、そうでなければ廃盤になり企画も立てられなくなっていくだけのことだ。真の作曲者も、今依頼を受けているという曲を、是非完成させて、こんどこそ自分の作品として世に問えばよい。
 見かけ上の作曲者の道義的な問題の処理、例えば市民賞の剥奪などということは、音楽の問題ではないから、適宜の判断でやればいいだろう。
 この人たちの曲を演技の伴奏に選んでオリンピックに出場を決めたフィギュアスケート選手の、背景は知らず曲が気に入って選んだのだから変更もせずこのまま競技に臨む、と言っているその姿勢は、全く正しいと考える。どのみちこの曲が全世界に放送されて何億の人に聴かれることになるのだ。今更この曲を人目から隠す意味もない。

 「浪花のモーツァルト」の異名をとる有名作曲家は、テレビ番組でこの見かけ上の作曲者を、関西らしい毒舌で断罪したという。これはこれで、実作者の実感こもった思いが伝わってくるし、何よりオチまでついていて笑えるので、値打ちある言葉だと思う。
 しかし、モーツァルトにせよベートーベンにせよ、さまざまな奇行やぶっとんだ性格で知られた人でもあるのだ。この見かけの作曲者にしても、『探偵! ナイトスクープ』に呼びつけ、最高顧問である浪花のモーツァルトが叱りつけて頭に金ダライでも落とせば、音楽的にはそれでよい。わたしはそんな程度に捉えている。
 

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