« 万葉線高岡駅乗入れ | トップページ | 宮島フリーパスで山に登る »

2014年7月29日 (火)

授業と喉

 ラジオのこともあって、昨年11月から約三カ月間、ボイストレーニングを受けていた。声に関しては、わたしの教師としてのみならず、人間としての生き方を規定されるコンプレックスと直結していたから、いろいろ学ぶことが多かった。

 わたしは、同じ夢を年に一~二回見る。それは、教壇の上で必死で声を張り上げているのに、学生には少しも聞こえていない、という夢である。急いで伝えねばならないことがあるのに、学生が帰ってしまう。呼び止める声が届かない。そして冷や汗をかいて目を覚ますのだ。その話も先生にした。
 この歳になってこんなことを言っているのも恥ずかしいが、こういう思いを洗い出さないと、次のステージに進めないのである。

 だいたいにおいて喉は弱い体質だったので、風邪などでいったん喉を傷めてしまうと、一カ月くらいは授業で声を出すのに難渋する、ということを繰り返してきた。ただでさえ声のボリュームがないのに、それがかすれがち、曇りがちになるのだから、ストレスもかなりのものだった。

 しかし昨冬は、喉は痛めたのだが、声の出にはほとんど影響がなかったのである。ボイストレーニングで効率よい声の出し方を習得したからかもしれない。これが助かった。

 以前から声で学生を引っ張っていくことができないから、それを補うために教材研究に時間をかけ、配布教材なども工夫してきた。『ちりとてちん』の草若師匠が、「不器用でええやないかい。不器用やからこそ人一倍稽古する」と言っていたとおりである。
 遅い時間までプリントの原版づくりや印刷やをしていると、なんで自分だけこんな面倒なことをしているのか、と空しく自問したくなるが、声がだめなんだからその分手間をかけないとしかたがない、と言い聞かせる。
 授業計画のほうも、いろいろと工夫をして、学生の自主的な学習を促すようなものに次第にシフトしてきたから、それほど声を張り上げ続けなくてもよい。

 ボイストレーニングでは、身体的なテクニックもさることながら、精神面の打破も課題に入っていた。声が出せるかどうか、というのは、自信とか自負とか使命感とか、そういうものが大きく影響することだからだ。
 自分の声をどう思うか、ということを自分で書き出していった。わたしだけでなく、そんな訓練を受けに来ている人だから、みんな自分の声が嫌いなのである。
 わたしも、自分の声を「弱々しい」「単調で表情がない」「通らない」「訴える力がない」などと評した。他の受講生も、自分の声を思いっきりこき下ろしている。
 先生も呆れて、ここまでみんながみんな自分の声を嫌っているクラスも珍しい、とばかり、ではお互いの声を評してみよう、と促す。他人の声に対しては、遠慮や配慮もあるから、そんなにひどいことは言わないのだが、そういうことを抜きにしても、他の受講生の声は、みんな何の問題もないように聞こえた。そして、わたしの声も他の受講生からみると、問題ない、というのである。

 自分で自分のことは冷静にみられない、という証左ではあるが、かといってこれで単純に自信が持てるものでもない。現実に、わたしは誰かと対話して聞き返されることが頻繁にあるのだ。やはり聞こえていないということだ。ざわめきやら騒音やらの中で出す声が特に弱い。サッコさんのライブだって、わたしの掛け声は通らない。
 いや、それも自信がないからこそそういう声しか出せないのだ、ということにもなるのだろう。この辺になると、ニワトリとタマゴの関係になる。どこかで循環を断ち切らないといけないのである。

 新幹線が開業した時、所要時間で勝負にならない近鉄の名阪特急は一時期衰退を余儀なくされた。それでも、近鉄はそれを廃止することなく、僅か2輌などというささやかな編成でも運転を続け、雌伏の時を忍び過ごした。
 やがて、料金の安さとアコモデーションで、近鉄も堂々新幹線に対抗できるようになり、すっかり賑わいをとり戻していく。

 弱点を克服するのも一法だし、別の利点を見いだすのも一興。自分にできること、自分にしかできないことを模索しながら、今後も自分の声と付き合っていく。

|

« 万葉線高岡駅乗入れ | トップページ | 宮島フリーパスで山に登る »

6.1  教師業」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/129332/59423839

この記事へのトラックバック一覧です: 授業と喉:

« 万葉線高岡駅乗入れ | トップページ | 宮島フリーパスで山に登る »