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2020年2月27日 (木)

大学生のレポートの文章がへた?

  Yahoo! ニュースの記事から。

「低レベルすぎる学生レポート」の数々に大学教員の嘆きが止まらない」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200216-00000005-moneypost-bus_all&p=2&fbclid=IwAR35V2dCAT8QgbgRbMLb56jjoahg1ZBAmg1xhYzMxFkDo43RVF-egXbF2zA

 嘆いている場合ではない。

 そりゃ、そうなるのはあたりまえだろう。「レポートの書き方」をきちんと教えていないのだから。
 教わっていなければ、学生は知っている文章のなかで、いちばん近いものを無意識に規範にする。


 例えば、中学や高校の教科書に載っていた、論説・評論の文章である。しかし、これがレポートを書くときのお手本になるか、といえば、ならない。
 教科書に載るような論説・評論は、純粋な論理的文章ではなくて、随想よりのものも少なくない。えてして、中高生に対して啓蒙的なスタンスで書かれたものが選ばれる、あるいは書き下ろされている。
 中学校の教材に「君は「最後の晩餐」を知っているか」なんていう評論教材があるが、このタイトルだけでもう、啓蒙的な上から目線で書かれているのがわかる。こんなのばっかり国語の時間に接してきて、それを手本に書いたら、レポートも「~をご存じだろうか」と書き出して「~と願ってやまない」で締めくくるパターンになる。
 
 レポートの書き方を教えるべきは高校なのか、大学なのか。責任の所在ははっきりしないが、大学もようやくその責任感に目覚めはじめた。
 図書館主導で、新入生対象にレポートや論文の書き方の講習をやるような大学も出てきているし、そのためにサブジェクト・ライブラリアンやサポート役の院生を図書館に配置して相談に応じたりしている。
 
 高校教育の方でも、読解と表現との結びつきを、もっと明確にするべきだろう。
 レポートならレポートの文章を書くためには、どんな文章を読んで参考にするべきなのか。評論なら評論の文章を読んだことで、どんな文章を書くときに役立つテクが身につくのか。そういう対応関係をきちんと作らないといけない。
 古典の読解をやった後、感想や話の続きを創作する文章やを書かせたからといって、読解を表現に結びつけたことにはならない。それらは読解を深めるための方便に過ぎない。
 
 このへんのところ、もっとすっきりさせられるような仕事がしたいものだ。

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